光明寺へ御来山歓迎


第七番金目山光明寺 (金目観音) 天台宗
 〒259-1201 神奈川県平塚市南金目八九六 0463(58)0127
 本尊●聖観世音菩薩  開基●道儀上人  創立●大宝二年(七〇二) 住職●大久保良允
●詠歌●なにごとも いまはかなひの 観世音 二世安楽と たれか祈らむ

小磯の浜より示現
 平塚から秦野へ向かう中間地点に金目があり、 その街道に沿って流れる金目川のほとりに金目観 音の別当光明寺がある。この川が相模湾にそそぐ 所、大磯町の小磯の浜で感得されたのがここのご 本尊である。『光明寺縁起』には大宝二年(七〇 二)潮汲みの海女の桶によって示現されたとある。 『坂東霊場記』は、海女ははじめ木片が桶に入っ たので両三度捨てたが、また入るので不思議に思 い、わが家に持ち帰った。そこへ一人の行脚の僧 が来て、これぞ聖徳太子御作の観音像であると告 げて立ち去った。そこでわが家の奥に奉安したの がこの寺の草創であると記している。
 これは仏教信仰流伝の経路をいう一つのパター ンであり、この辺一帯には早くから高麗文化が及 んでいたことを考えると、この縁起もうなずける といえよう。「かなひの観音」と呼ばれるのは家 内に祀ったのによるとか、所願みな叶うによると か、俗称の由来は興味深いものがある。のちに道 儀上人が一宇を建立、三十年後の天平年間(七二 九〜四九)に僧行基が一・七メートルの観音像を 彫み、その「胎内」に海浜出現の金像を納めた。 安産守護のご本尊
 この故事により「お腹ごもりの観音」として喧 伝され、源頼朝の夫人政子も実朝出産の折、祈願 をこめた。もちろん、頼朝をはじめ将軍家相次い で帰依し、寺領を寄せて祈願所と定めたので、寺 運はこの頃から大いにあがった。明応年間(一四 九二〜一五〇一)の建立で、平塚最古の建造物、 間口七間、奥行八間の観音堂。また本尊が納めら れている室町時代末期の様式である「一間厨子」 (国の重文指定)とその屋根や欄間の見事な造形 は創建当初の姿を残しており、優作と評されてい る。お前立のご本尊も明応年間の彫刻であるとい う。
 昔、お産は女性にとって大厄であった。全国に 安産守護の仏、菩薩の多いことがこれを物語って いるが、この金目の観音菩薩も政子の祈願以来、 「お腹帯」の授与をうける者がきわめて多い。 足利尊氏の弟で鎌倉の宝戒寺第二世の惟賢和尚 が、この寺に住した頃、全国から天台の修行僧が 来て学び、 一大学林を成した。光明寺において空 忍に灌頂を授けたこの惟賢阿閣梨の頂相が宝戒寺 にある。境内の梵錘は正平七年(一三五二)の在 銘。作風は全体として繊細だが、よく南北朝期の 特色を見せている。慶安二年(一六四九)将軍家 光より朱印状を受け、約二千六百坪の境内を構え た。元禄年間(一六八八〜一七〇四)に慶賀和尚 が「彼の観音力を念ず。是に於て奇しきかな、百 姓、石を担い土を運び、之を盛り之を度る・・・期 せずして来る者雲の如し」(縁起)とあるように 真俗一体の功業によって中興した。それ故に慶賀 和尚を中興開山と仰いでいる。その復興の勧進帳 が失火のため大半は灰と化したが、名簿の部分だ けが残り「鳴呼、慈眼の照らす所なり、実に奇し きかな、之を以て光明寺今に至るも之を蔵し以て 珍とす。太だ異験あり、如し患疫の人あり、来り 之を拝すれば頓かにいゆ」と「縁起」は綴ってい る。古刹が人を引きつけるのは、こういう先人の 見るべき営みがそこにあったからであろう。勧進 の尊さといえよう。しかし、明治初年には無住に 等しい荒廃を示した。だが、現住の晋山をみて、 今や元禄期の慶賀和尚をしのぐ復興ぶりを見せて いる。特に最近の解体修理によって往時の盛観が よみがえった。金目川の洪水から、また兵火から 今日まで霊場を護り続けてきた里人の信仰と共に 尊いことである。

●主な法要行, 一月一日元旦初詣護摩供 一月十 八日初観音会護摩供 四月八日大聖歓喜天大祭 八月 九日四万八千縁日 八月十六日孟蘭盆会施餓鬼供 八 月十八日観音会 十二月三十一日除夜
●付近の名所旧跡 真田与一墓所
●宿泊施設 なし。
●拝観料 無料。
●納経時間 (夏)午前八時〜午後五時
      (冬)午前八時半〜午後四時半


 念彼観音力の観音さま信仰     光明寺住職 大久保良允

 観音経の中には優れた名句がたくさんあって、そのどれにも引きつけられます。それらの中か らただ一句だけあげるとすれば、「念彼観音力」しかないでしょう。常住坐臥−朝念観世音 暮 念観世音−それだけで信仰は充分である、と信じています。
 観音妙智力は、何にたとえようもなく、広大にして清浄、無量無辺の慈悲そのものの相である ことを観じながら、日々観世音に仕えられることを無上の喜びとして、深く感謝しています。当 山ご本尊は海中出現の金像をお腹寵としたことから、源頼朝公政子夫人安産祈願の故事もあり、 安産祈願の寺として広く知られてきました。
 明応年間建立の観音本堂も、多くの方々のお力によって解体修理が完成し、平塚市最古の伽藍 として参拝者も多く、観音信仰も次第に盛んになってきました。
 多くの人々のさまざまな悩みを、その人と共に悩み、祈り、幾多の念願成就の喜びを、観音さ まのご利益として喜び、感謝しながら、ますます「念彼観音力」の信仰を深めていきたい、と切 に願っております。

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