安楽寺へ御来山歓迎


第十一番 岩殿山安楽寺(吉見観音)真言宗智山派
 〒355-0151埼玉県比企郡吉見町御所三七四 0493(54)2898
本尊 聖観世音菩薩 開基 坂上田村麻呂 創立 大同元年(八〇六) 住職 島本虔栄
●詠歌●吉見よと 天の岩戸を 押し開き 大慈大悲の 誓いたのもし

源範頼ゆかりの寺
 安楽寺は町の中心部から離れており、長い参道 を行くと、老杉の梢越しに三重塔の九輪が鋭く空 にのびているのが見えてくる。かつては泉屋、山 田屋、土瓶屋など巡礼者のための宿が、この辺に あったという。六月十八日の「厄除け観音」 のご 縁日には、午前二時頃からこの表参道を参拝者が たどる。朝早ければそれだけご利益が多いとされ ている。門前では「厄除け団子」が売られている。 これは昔、疫病が流行した時にダンゴをつくって 観音さまへお供えし、難を逃れた故事によるもの である。大きさも不揃い、味もまちまちであるの が面白い。
 石標に「坂東十一番、蒲冠者源範頼旧蹟」とあ るのを見ながら石段を上ると仁王門、その奥正面 に観音堂が樹林を背に建っている。寺の草創は僧 行基が東国巡錫の折、ここを霊地と定め、聖観音 像を刻み、岩窟に納めたというもので、岩窟寺院 の一つである。のちに桓武天皇の時、奥州征討の 坂上田村麻呂が戦勝を祈願、七堂伽藍を建立した。 関東東北の地に観音信仰普及の端緒を開いたのは、 田村麻呂であったが、ここもその一霊場である。 また天慶三年(九四〇)平将門叛乱の折、調伏 を命ぜられ、百院百壇を設けて修法、効験があっ たとも伝えている。ともかく平安朝期には関東で 有数な寺となっていたことは疑いない。
 なんといってもこの寺と縁の深いのは源範頼で ある。平治の乱のあと助命され、この寺の稚子僧 となって育ったが、のちに領主となってからその 折の報恩にと所領の半分を寄進し、三重塔、大講 堂を建立した。惜しくも天文年間 (一五三二〜五 五)松山城の攻防戦で焼失してしまった。「吉見 御所」 の地名は範頼の子孫がここに根をおろし、 吉見一族となったのによろう。

僧杲境の復興
 天文年間の合戦で堂舎を失い、住僧は離散とい う衰運を迎えた。『縁起』はその有様を「八百年 来聚る所の仏像、霊宝など須臾に灰燼となり」と 嘆き記している。そののち下総国印旛郡出身の僧 杲鏡が法華経読誦千日、別時念仏の行を積み、復 興に精進、近里の檀越を勧進して五間四面の観音 堂と現存朱塗りの見事な三重塔を再建した。
 比企丘陵の一角にそびえ建つこの華麗な塔は、 江戸初期の地方色豊かな建物として貴重なもので ある。昭和三十五年、解体修理を行い一層気品を 加えた。県指定の文化財である。
 さらに弟子の秀慶が七間四面の観音堂を寛文元 年(一六六一)に完成。ついで元禄に仁王門力士 像成り、宝永に地蔵尊、薬師、十二神将像の造立、 享保に御拝欄干の擬宝珠荘厳、宝暦に宝筐印塔の 建立など、江戸時代のこの寺の進展は目を見はる ものがある。特に本堂前の寛政二年 (一七九〇) 鋳造の露座の阿弥陀如来は「吉見の大仏」として 親しまれているが、なんといっても全体に穏健な 和風の雰囲気をもつ塔が巡礼者の心をなごませて くれる。ここの本堂の外陣には江戸初期の西国・ 坂東・秩父の百観音を満願にした「奉納額」が四 十余枚もあり、巡礼史研究の大切な史料となって いる。この「納札」はご本尊との永久的な結緑を ねがって奉納されたものであるが、三百年の風雪 にたえて、巡礼者の志願をよく今に伝えているも のといえよう。なお、本堂内陣には左甚五郎作の 「野あらしの虎」 と呼ばれる欄間がある。境内に は 「写し札所百観音堂」もある。文化十年(一八 一三)法印妙心の発願になるものであるが、容易 に巡礼の旅に出られなかった者には、大変有難い 企てであったといえよう。
●主な法要行事 元旦会 節分会 六月十八日厄除観 音会 八月九・十日四万六千日(千灯籠)九月十八 日施餓鬼会 冬至星供養祭
●付近の名所旧跡  吉見百穴 森林公園
●宿泊施設 なし。
●拝観料 無料。
●納経時間 (夏)午前八時〜午後五時
      (冬)午前九時〜午後四時


 貧者の福を得た霊験記  安楽寺件鹿島本虔栄

             元禄の中頃、細谷村の某氏当山の観世音に皈依して月詣りを怠らず修行しておりましたが、事業が不如意で朝暮悩んでおりました。
 ある時感慨して自分は過去に樫貪邪見にて布施行の善因を積まぬためこのような境遇にあるのではなかろうかと反省いたしました。そこで三ヵ年日参の願を立ていかなる風雪もいとわず毎夜登山精誠に祈念いたしました。
 ようやく千日成満の夜、ご宝前に籠り、観音大悲の宝号を唱えておりましたが、暁の頃夢の中に須弥壇のうしろより香衣の老僧が出て、「お前の願い浄心なればこの摩尼珠を与える」と掌中へ黒色の玉を賜わりました。某氏は驚き、目が覚め掌を開き見ると棗大の黒色の玉がありました。これは観音さまが自分の願いを顧み福衆の宝珠を賜わったのであろうと喜び、住僧の教えに従って観音さまを造り、胎内に感得の宝珠を納め朝夕祈念しておりました。
 その後家業は繁昌し、子孫も孝順の者ばかりにてますます繁栄されたといいます (坂東観音霊場記)。

第十二番札所のページへ
地図(クリッカブル・マップ)へ