坂東霊場記について| 坂東三十三観音

坂東霊場記について

坂東札所の「縁起」にふれながら案内記を書く場合、必ず見なくてはならない本に『三十三所坂東観音霊場記』(十冊)がある。この「案内記」でも各所で引用した。この本は真言宗の名僧亮盛師の執筆により、明和八年(1723)に出版されたものである。西国札所についての多量な出版に比べると、数少ない坂東札所関係の書物の中で、まことに貴重な「霊場記」といえる。しかも正確にして豊かな内容は類書をしている。この案内記の本文中に「坂東霊場記」とあるのは、すべてこの亮盛師の本のことをさしている。

亮盛師は享保八年(1723)武州葛飾郡二郷半領幸房村(埼玉県北葛飾郡三郷市幸房)の戸部家に生れ、十一歳で茂田井の光明院尊慶について得度、のち流山市鰭カ崎の東福寺の能勝に師事、また豊山 長谷寺に学び、延享二年(1745)三郷市花和田の西善寺の住職となった。

寛延三年(1750)再び大和の長谷寺(西国札所第八番)へ修学のため向う途中、「宮の渡し」で暴風にあい、まさに同船の多くの人たちと命終ということになろうとした。時に亮盛師は観音経を読誦、長谷の観音さま一心に祈りをこめ、「大悲本誓あやまたずして此の諸人の限命を助けたまはれば、我れ三十三所に巡詣し、其の霊場の縁由を集めて永く大悲の利生を伝へ、海滴の恩を報じ奉らん」とお願いしたのだった。実はこの発願は「我久しく坂東霊場に帰依して、其の縁起大成させることなきを憾む」と「霊場記」の序文にある如く、亮盛師がかねてから考えていたところであった。

この祈誓をするや、半刻ばかりして風はやみ、無事に桑名に着くことができた。したがってこの「霊場記」は亮盛師がうけた尊い観音霊験によって、この世に問われたものであるといえよう。各所に厚い信仰のあらわれが見られるのも、そのためである。長谷寺に約六カ年修行し、帰東ののち日輪院さらに所沢市上山口の金衆院(山口観音)の住職となった。その問「坂東霊場記」の執筆にあたり、各札所を再三訪ね、その寺の「縁起・旧記」を書写、また土地の古老に伝説をたずね、古文献をさぐるほか、内外の典簿(引用書は百種を越えている)の中から関連する記述を抄出して付記し、読者の理解に便ならしめている。そして推敲を重ねて誤りなく、読み易いように配慮されており、文学的にも名著である。だから出版後は江戸時代のいろいろな書物に引用されている。「施主」(援助者)百四十一名の浄財を得て「前川権兵衛」を版元として明和八年六月に出版した。

亮盛師は享和三年(1803)に示寂したが、それまでに「狭山三十三観音札所」を創設して「狭山順礼記」を出版したり、筑波山知足院(廃寺)の院代を勤め「筑波山名蹟誌」を出版するほか、「七夕草露集」「大黒天宝のう記」「東京六地蔵巡礼記」などを著わした。実に近世における真言宗豊山派の学僧といえよう。「坂東霊場記」の活字本は金指正三氏校注のものが青蛙書房から、また「続豊山全集」にも収められている。  なお、この案内記の中で「風土記稿」としているのは「新編武蔵国風土記稿」(文政十一年)・「新編相模国風土記稿」(天保十二年)のことで、江戸幕府官撰の「地誌」のことである。

坂東札所の巡礼には電車とバスを利用すると約十二日間を必要とする。徒歩では四十日かかるともいわれている。今日、これを一回で巡り終えようとするより、何回かに分けて巡る人の方が多いようである。その方が実生活にあって無理がないせいであろう。それには地域的にまとまっている札所を何カ寺かきめて、日帰りか、一~二泊の日程がよい。

とにかく巡りはじめたら三十三ヵ所を満願にしようという心がけが何より大切である。三十三ヵ所の霊場全部を巡り終えたという充足感は、生きるカとなってあらわれてくるからである。観音札所巡礼によって「こころ」が澄み、そこに「もう一人の自分」を見出すことができるということは、すでに多くの巡礼者が体験し、告白しているところである。坂東札所は、あなたの期待に充分こたえてくれるものを持っている霊場である。「仏種は縁に従って起こる」と教えられているが、観音さまとのご緑を探め、心の平安を得てより充実した人生を送りたいものである。


浅草寺貫首 清水谷孝尚
(坂東札所靈場会編・朱鷺書房『坂東三十三所観音巡礼・法話と札所案内』から転載)

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