坂東札所の歴史 | 坂東三十三観音

坂東三十三観音の歴史

花山法皇とのゆかり

坂東札所のうち約十カ所に及ぶ霊場の『縁起』が花山法皇が巡って来られ、札所に指定されたと記している。たとえば永禄三年(1560)に書かれた『杉本寺縁起』には「永延二年戌子の春、忝も法皇御順礼の勅命有て、当山を以て坂東第一番と定め御順礼有り、夫より今に至るまで貴賎の順礼絶せずとなり」と記されている。

また、沙門亮盛が江戸時代に著わした『坂東観音霊場記』には花山法皇が大和長谷寺に詣で、暁に祈念しておられると、香衣の老僧があらわれ、「我れ坂東八州に於て身を三十三所に現ず。其の能く霊場を知るは河州石河寺の仏眼上人なり。彼と倶に坂東巡礼を始行してあまねく道俗男女を導くべし」とのお告げをうけたとも書かれている。

これらの資料からいえることは、坂東札所は花山法皇によって巡られたのをその嚆矢としていることであり、その伝承を少なくとも江戸時代までは信じていたということである。しかし、史実のうえでは花山法皇が関東に下向されたとは信じ難いのであって、これはあくまでも西国札所の場合と同じように、札所の権威づけを意図したものといえよう。
 また、この考え方のうちに坂東札所そのものが、どこまでも西国札所に倣って行われたものであることが示されているともいえる。いわゆる西国札所の地方移植の一つが坂東札所なのである。


源頼朝・実朝の信仰

西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、やがて札所が形成されていったのはいつの頃であったろうか。いま、その経過を明らかにする史料はないが、直接の契機は鎌倉幕府の成立と将軍家の深い観音信仰にあったといわれている。すなわち頼朝が将軍であった頃、その気運が起こり、実朝のときに機が熟して制定されたのではあるまいかというのである。

坂東札所が第一番を鎌倉の杉本寺とし、鎌倉・相模それに武蔵に札所の多いこと(これは戦乱によって退転した武相の寺院を保護しようとした頼朝の政策を反映しているが)、そして安房の郡古寺を打ち納めとしているなど、鎌倉居住者に巡拝の経路が好都合になっているなど、鎌倉期成立説に妥当性を与えている。この時代、三浦半島あたりから上総や安房へ通ずる海上交通は発達していたので、容易にこの順路は考えられる。
 さて、頼朝がきわめて熱心な観音信者であったことは、『吾妻鏡』によって知られる。これは伝説ではあるが、伊豆横道の三十三カ所の創始者に頼朝が擬せられていることは、頼朝が札所信仰に全く無関心な人であったならばつくられない話であろう。また、実朝もしばしば岩殿寺などへ参詣しており、元禄頃の記録には「実朝公坂東三十三番札所建立」と明記されている。

そして、この時期における坂東札所の創始を側面から促したのは、関東武士たちが平家追討などで西上した折、直接に西国札所を見聞し、信心を探めたことにあるといわれている。さらにいえば関東武士・土豪の間に、この頃、熊野参詣が行われており、巡礼への気分が高まっていたことも一因といえる。なお、浄土教の関東伝播に対し天台・真言寺院の自衛策の一環として、観音信仰が鼓吹されたのにも由るという。

もちろん、この頃すでに関東の地にそれだけの観音霊場が開かれていたので、その組織化が可能であった。では誰が、いつ、どこで三十三カ所の霊場に連帯意識をもたせたのであろうか。建久三年(1192)後白河法皇の四十九日の法要を鎌倉の南御堂で頼朝が行った時に、武相の僧侶百名が招かれた。そのうちに杉本寺岩殿寺勝福寺光明寺慈光寺浅草寺、いわゆるのちに坂東札所となった寺から合計二十一名が集まっている。あるいはこの時に観音系寺院による札所制定への協議がもたれたかも知れぬ。それに積極的に協力したのが杉本寺の浄台房・慈光寺の別当厳耀・弘明寺の僧長栄であったと推考されている。それも頼朝の意図を充分汲んでのことであったろう。

ここで注意したいのは、関東八カ国に散在する三十三カ所の観音霊場を巡拝する者にとって、まず全行程が障害なく巡ることができるという保証である。それには各国が強力な支配者によって統制されていることが必要であり、国から国への旅を無条件で許してくれる政治態勢が不可欠である。その意味からしても、坂東札所は鎌倉幕府の成立をみてはじめて可能なことであったといえるのではなかろうか。


僧成弁の巡礼

源実朝の没後、わずか十五年後のこと、天福二年(1234)に坂東札所が実際に巡られていたことを示す確実な史料がある。それは福島県東白河郡八槻村の都々古別神社に残る観音像造立についての「墨書銘」であり、坂東札所の歴史を知るうえで貴重なものである。それによると僧、多分、山伏であったろうが成弁なる者が三十三カ所を巡礼中、常陸八溝山観音堂に三百力日参籠、別当の求めに応じて観音像を彫造したというのである。

八溝山観音堂は坂東第二十一番の札所であるから、これによって坂東札所は少なくとも天福二年以前に成立しており、修行僧たちによって巡られていたことが知られる。しかし、参籠三百日とあることなどから苦行が予想され、一般の人々の参加はまだ見られず、幕府関係の上級武士か僧侶に限られて巡られていたもののようである。嘉禄三年から弘安三年(1227~80)にかけて岩殿寺星谷寺浅草寺の興隆に尽くした沙弥西願もこの坂東札所信仰を鼓吹した僧侶の一人であろうといわれている。


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巡礼者

一般人の参加

やがて室町時代になると一般庶民の参加が目立ってくる。足利市の鑁阿寺に残されている「巡礼札」には「文明五年六月廿六日、相州西郡済五郎兵衛三郎、坂東三十三所巡礼」とか「文明九年閏正月六日、武州足立郡芝蕨村、坂東三十三所巡礼・仙助三郎助二郎彦二郎」などとあり、この頃になってようやく関東在住の一般人が坂東巡礼に出たことが知られる。

また、中尊寺、西方寺などに残る延徳四年、大永七年、天文四年の「巡礼札」によって遠く奥州の地からも坂東札所を打った人がいたことがわかる。そして天文六年(1537)の『東勝寺鼠物語』には「谷汲にて札を納め、又、四国遍路、坂東巡礼などして諸国を修行仕ける」とあって、山地方の札所という地方性からの脱却も見られる。なお、室町時代の「狂言」に「是より直に西国、坂東八カ国を巡って霊場を拝まうと思ふが何とあらふ」とあるなど、すでに坂東は西国と比肩するほどの札所になっていたようである。

室町末期には西国、秩父と合わせての「百観音札所」巡礼が行われるようになると、坂東札所も一段と賑わいを増し、江戸時代の盛況へと移っていった。

ところで坂東札所は番付通り巡ると道程に無駄の多い配置となっている。江戸時代の人、十返舍一九の『金草鞋』には「西国巡礼は第一より順に巡はれども、坂東はいろいろ入組み、順に巡はることなり難し」とある。だから江戸時代の『道中記』には「江戸より此ばんどう札所をまはるには、一ばん浅草、二ばんぐみょう寺、三番に杉本寺へ参るべし」などと指示するようになっている。江戸時代では当然のことながら、それ以前においても、順番にかまわず巡る場合が多かったのではなかろうか。しかし、番付は制定以来一カ所も変更がなかったようである。

江戸時代の明和三年、沙門円宗の著『秩父縁起霊験円通伝』に「坂東は武蔵、相模、安房、上総など八州にわたる。其の行路堪へ難し」とあるように全行程三百三十里(約1,300キロ)の巡拝は容易のものではない。だから信心の浅い者たちへの吸引カは弱かったかも知れぬが、真撃な巡礼者には、その恵まれた自然の景観、関東育ちのご本尊さま、すべてが魅力であったと思われるし、今日でもその状態は充分に保たれている。


浅草寺貫首 清水谷孝尚
(坂東札所靈場会編・朱鷺書房『坂東三十三所観音巡礼・法話と札所案内』から転載)

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