(坂東札所靈場会編・朱鷺書房『坂東三十三所観音巡礼・法話と札所案内』から転載)
坂東札所案内 浅草寺貫首 清水谷孝尚

 (1)観音札所巡礼の創始
 インドにその源を発する観音信仰は、仏教の東漸にともなって中国、朝鮮、そして日本に流伝 した。特にわが国においては、きわめて古くから、また、各時代を通じて観音信仰は継承され、 やがて全国津々浦々に至るまで浸透、それゆえに民衆信仰を代表するものとなっている。だから 現存するあらゆる仏像の中で、観音像がもっとも多数を占めており、また、観音信仰の縁起や説 話のたぐいも多く語り伝えられ、信ぜられている。
 この観音信仰の基盤をなす代表的な経典は「妙法蓮華経」の中の「普門品第二十五」であるが、 真心をもって一心に観音の御名を称えれば、その音声を観じてたちどころにわれわれの苦悩を観 音菩薩は救いたもうとある。そして、その慈悲心のおはたらきが、姿を三十三種に変じての救い となっているといわれるのである。
 この三十三という数に合わせて始められたのが、三十三観音札所巡りである。これは観音さま への帰依のあらわれのひとつとして行われているもので、したがって札所から札所への祈りの中 で救われた人も無数といわれる。しかも永い年月の間に、そこには納経・ご詠歌・笈摺など独特 の習俗を生み、現在でも多くの人々によってそれが伝承されていることは、巡礼が国民的信仰で あることを物語っていよう。
 では、この観音札所巡りの信仰は、いつの時代から、誰によって創唱されたものであろうか。 伝説によれば、巡礼の始めは大和長谷寺の開山徳道上人が養老年間(七一七〜二三)に閻魔大王 の勧めによって発願、多くの人々を誘ったことにあるという。だが誰も信じようとしないので、 そのままとなっていた。やがて約二百七十年後のこと、花山法皇が石川寺の仏眼上人・播州書写 山の性空上人を先達として、自ら巡礼なされ、これを中興したというのである。この両者に関す る巡礼創始、中興の話は有名で、室町時代の禅僧の語録である『竹居清事』や『天陰語録』など にも明記されており、かなり以前からの伝承であることが知られる。しかも、少なくとも江戸時 代まで大多数の人がこれを史実として疑わなかったことは特筆すべきことである。
 特に至尊の身であらせられた花山法皇が、実際に歩まれた道を、そのままに辿るのだという敬 虔な気持ちと誇りとは庶民にとって、大きな心のささえであったろう。だから、多くの札所縁起 が花山法皇の巡錫を記しているのもうなずけるのである。その意味で観音札所信仰の中で、一千 年を経た今日においても、法皇は今も生きつづけておられると申してよかろう。
 しかし、史実のうえでは、近江三井寺の覚忠大僧正が、応保元年(一一六一)近畿地方に散在 する三十三カ所の観音霊場を七十五日かけて巡られたのが、その創始であるといわれる。それは 三井寺僧侶の伝記を集めた『寺門高僧記』の記録によるところである。したがって観音札所巡礼 は、平安末期の創始で、修験者たちによるものであることが知られる。そして札所のうえに「西 国」の二字が冠せられるようになったのは、鎌倉時代、東国の人々の呼称によるものであったろ うと推定されている。この東国人の西国札所に寄せる熱い思いは、やがて坂東札所の制定へとつ ながっていったのであり、この坂東札所の成立を前提としてのみ「西国」という二字の意味が理 解できるのである。では坂東札所の歴史について触れてみることにしよう。

(二) 坂東札所の歴史
花山法皇とのゆかり
 坂東札所のうち約十カ所に及ぶ霊場の『縁起』が花山法皇が巡って来られ、札所に指定された と記している。たとえば永禄三年(一五六〇) に書かれた『杉本寺縁起』には「永延二年戌子 の春、忝も法皇御順礼の勅命有て、当山を以て坂東第一番と定め御順礼有り、夫より今に至るま で貴賎の順礼絶せずとなり」と記されている。
 また、沙門亮盛が江戸時代に著わした『板東観音霊場記』((三)で詳説)には花山法皇が大和 長谷寺に詣で、暁に祈念しておられると、香衣の老僧があらわれ、「我れ坂東八州に於て身を三 十三所に現ず。其の能く霊場を知るは河州石河寺の仏眼上人なり。彼と倶に坂東巡礼を始行して あまねく道俗男女を導くべし」とのお告げをうけたとも書かれている。
 これらの資料からいえることは、板東札所は花山法皇によって巡られたのをその嚆矢としてい ることであり、その伝承を少なくとも江戸時代までは信じていたということである。しかし、史 実のうえでは花山法皇が関東に下向されたとは信じ難いのであって、これはあくまでも西国札所 の場合と同じように、札所の権威づけを意図したものといえよう。
 また、この考え方のうちに坂東札所そのものが、どこまでも西国札所に倣って行われたもので あることが示されているともいえる。いわゆる西国札所の地方移植の一つが坂東札所なのである。

源頼朝・実朝の信仰
 西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、やがて札所が形成されていったのはいつの頃であっ たろうか。いま、その経過を明らかにする史料はないが、直接の契機は鎌倉幕府の成立と将軍家 の深い観音信仰にあったといわれている。すなわち頼朝が将軍であった頃、その気運が起こり、 実朝のときに機が熟して制定されたのではあるまいかというのである。
 板東札所が第一番を鎌倉の杉本寺とし、鎌倉・相模それに武蔵に札所の多いこと(これは戦乱 によって退転した武相の寺院を保護しようとした頼朝の政策を反映しているが)、そして安房の 郡古寺を打ち納めとしているなど、鎌倉居住者に巡拝の経路が好都合になっているなど、鎌倉期 成立説に妥当性を与えている。この時代、三浦半島あたりから上総や安房へ通ずる海上交通は発 達していたので、容易にこの順路は考えられる。
 さて、頼朝がきわめて熱心な観音信者であったことは、『吾妻鏡』によって知られる。これは 伝説ではあるが、伊豆横道の三十三カ所の創始者に頼朝が擬せられていることは、頼朝が札所信 仰に全く無関心な人であったならばつくられない話であろう。また、実朝もしばしば岩殿寺など へ参詣しており、元禄頃の記録には「実朝公坂東三十三番札所建立」と明記されている。
 そして、この時期における板東札所の創始を側面から促したのは、関東武士たちが平家追討な どで西上した折、直接に西国札所を見聞し、信心を探めたことにあるといわれている。さらにい えば関東武士・土豪の間に、この頃、熊野参詣が行われており、巡礼への気分が高まっていたこ とも一因といえる。なお、浄土教の関東伝播に対し天台・真言寺院の自衛策の一環として、観音 信仰が鼓吹されたのにも由るという。
 もちろん、この頃すでに関東の地にそれだけの観音霊場が開かれていたので、その組織化が可 能であった。では誰が、いつ、どこで三十三カ所の霊場に連帯意識をもたせたのであろうか。建 久三年(一一九ニ)後白河法皇の四十九日の法要を鎌倉の南御堂で頼朝が行った時に、武相の僧 侶百名が招かれた。そのうちに杉本寺・岩殿寺・勝福寺・光明寺・慈光寺・浅草寺、いわゆるの ちに板東札所となった寺から合計二十一名が集まっている。あるいはこの時に観音系寺院による 札所制定への協議がもたれたかも知れぬ。それに積極的に協力したのが杉本寺の浄台房・慈光寺 の別当厳耀・弘明寺の僧長栄であったと推考されている。それも頼朝の意図を充分汲んでのこと であったろう。
 ここで注意したいのは、関東八カ国に散在する三十三カ所の観音霊場を巡拝する者にとって、 まず全行程が障害なく巡ることができるという保証である。それには各国が強力な支配者によっ て統制されていることが必要であり、国から国への旅を無条件で許してくれる政治態勢が不可欠 である。その意味からしても、板東札所は鎌倉幕府の成立をみてはじめて可能なことであったと いえるのではなかろうか。

僧成弁の巡礼
 源実朝の没後、わずか十五年後のこと、天福二年(一二三四)に坂東札所が実際に巡られてい たことを示す確実な史料がある。それは福島県東白河郡八槻村の都々古別神社に残る観音像造立 についての「墨書銘」であり、坂東札所の歴史を知るうえで貴重なものである。それによると僧、 多分、山伏であったろうが成弁なる者が三十三カ所を巡礼中、常陸八溝山観音堂に三百力日参籠、 別当の求めに応じて観音像を彫造したというのである。
 八溝山観音堂は板東第二十一番の札所であるから、これによって坂東札所は少なくとも天福二 年以前に成立しており、修行僧たちによって巡られていたことが知られる。しかし、参籠三百日 とあることなどから苦行が予想され、一般の人々の参加はまだ見られず、幕府関係の上級武士か 僧侶に限られて巡られていたもののようである。嘉禄三年から弘安三年(一二二七〜八〇)にか けて岩殿寺・星谷寺・浅草寺の興隆に尽くした沙弥西願もこの坂東札所信仰を鼓吹した僧侶の一 人であろうといわれている。

一般人の参加
 やがて室町時代になると一般庶民の参加が目立ってくる。足利市の鑁阿寺に残されている「巡 礼札」には「文明五年六月廿六日、相州西郡済五郎兵衛三郎、坂東三十三所巡礼」とか「文明九年 閏正月六日、武州足立郡芝蕨村、坂東三十三所巡礼・仙助三郎助二郎彦二郎」などとあり、この頃 になってようやく関東在住の一般人が坂東巡礼に出たことが知られる。
 また、中尊寺、西方寺などに残る延徳四年、大永七年、天文四年の「巡礼札」によって遠く奥 州の地からも板東札所を打った人がいたことがわかる。そして天文六年(一五三七)の『東勝寺 鼠物語』には「谷汲にて札を納め、又、四国遍路、坂東巡礼などして諸国を修行仕ける」とあっ て、山地方の札所という地方性からの脱却も見られる。なお、室町時代の「狂言」に「是より直 に西国、坂東八カ国を巡って霊場を拝まうと思ふが何とあらふ」とあるなど、すでに坂東は西国 と比肩するほどの札所になっていたようである。
 室町末期には西国、秩父と合わせての「百観音札所」巡礼が行われるようになると、坂東札所 も一段と賑わいを増し、江戸時代の盛況へと移っていった。
 ところで坂東札所は番付通り巡ると道程に無駄の多い配置となっている。江戸時代の人、十返 舍一九の『金草鞋』には「西国巡礼は第一より順に巡はれども、坂東はいろいろ入組み、順に巡 はることなり難し」とある。だから江戸時代の『道中記』には「江戸より此ばんどう札所をまは るには、一ばん浅草、二ばんぐみょう寺、三番に杉本寺へ参るべし」などと指示するようになっ ている。江戸時代では当然のことながら、それ以前においても、順番にかまわず巡る場合が多か ったのではなかろうか。しかし、番付は制定以来一カ所も変更がなかったようである。
 江戸時代の明和三年、沙門円宗の著『秩父縁起霊験円通伝』に「坂東は武蔵、相模、安房、上 総など八州にわたる。其の行路堪へ難し」とあるように全行程三百三十里(約一三〇〇キロ)の 巡拝は容易のものではない。だから信心の浅い者たちへの吸引カは弱かったかも知れぬが、真撃 な巡礼者には、その恵まれた自然の景観、関東育ちのご本尊さま、すべてが魅力であったと思わ れるし、今日でもその状態は充分に保たれている。

(三)坂東霊場記について
 坂東札所の「縁起」にふれながら案内記を書く場合、必ず見なくてはならない本に『三十三所 坂東観音霊場記』(十冊)がある。この「案内記」でも各所で引用した。この本は真言宗の名僧 亮盛師の執筆により、明和八年(一七二三)に出版されたものである。西国札所についての多量 な出版に比べると、数少ない坂東札所関係の書物の中で、まことに貴重な「霊場記」といえる。 しかも正確にして豊かな内容は類書を圧tている。この案内記の本文中に「坂東霊場記」とある のは、すべてこの亮盛師の本のことをさしている。
 亮盛師は享保八年(一七二三)武州葛飾郡二郷半領幸房村(埼玉県北葛飾郡三郷市幸房)の戸 部家に生れ、十一歳で茂田井の光明院尊慶について得度、のち流山市鰭カ崎の東福寺の能勝に師 事、また豊山長谷寺に学び、延享二年(一七四五)三郷市花和田の西善寺の住職となった。
 寛延三年(一七五〇)再び大和の長谷寺(西国札所第八番)へ修学のため向う途中、「宮の渡 し」で暴風にあい、まさに同船の多くの人たちと命終ということになろうとした。時に亮盛師は 観音経を読誦、長谷の観音さま一心に祈りをこめ、「大悲本誓あやまたずして此の諸人の限命を 助けたまはれば、我れ三十三所に巡詣し、其の霊場の縁由を集めて永く大悲の利生を伝へ、海滴 の恩を報じ奉らん」とお願いしたのだった。実はこの発願は「我久しく坂東霊場に帰依して、其 の縁起大成させることなきを憾む」と「霊場記」の序文にある如く、亮盛師がかねてから考えて いたところであった。
 この祈誓をするや、半刻ばかりして風はやみ、無事に桑名に着くことができた。したがってこ の「霊場記」は亮盛師がうけた尊い観音霊験によって、この世に問われたものであるといえよう。 各所に厚い信仰のあらわれが見られるのも、そのためである。長谷寺に約六カ年修行し、帰東の のち日輪院さらに所沢市上山口の金衆院(山口観音)の住職となった。その問「坂東霊場記」の 執筆にあたり、各札所を再三訪ね、その寺の「縁起・旧記」を書写、また土地の古老に伝説をた ずね、古文献をさぐるほか、内外の典簿(引用書は百種を越えている)の中から関連する記述を 抄出して付記し、読者の理解に便ならしめている。そして推敲を重ねて誤りなく、読み易いよう に配慮されており、文学的にも名著である。だから出版後は江戸時代のいろいろな書物に引用さ れている。「施主」(援助者)百四十一名の浄財を得て「前川権兵衛」を版元として明和八年六 月に出版した。
 亮盛師は享和三年(一八〇三)に示寂したが、それまでに「狭山三十三観音札所」を創設して 「狭山順礼記」を出版したり、筑波山知足院(廃寺)の院代を勤め「筑波山名蹟誌」を出版する ほか、「七夕草露集」「大黒天宝のう記」「東京六地蔵巡礼記」などを著わした。実に近世におけ る真言宗豊山派の学僧といえよう。「坂東霊場記」の活字本は金指正三氏校注のものが青蛙書房 から、また「続豊山全集」にも収められている。
  なお、この案内記の中で「風土記稿」としているのは「新編武蔵国風土記稿」(文政十一年)・  「新編相模国風土記稿」(天保十二年)のことで、江戸幕府官撰の「地誌」のことである。

 坂東札所の巡礼には電車とバスを利用すると約十二日間を必要とする。徒歩では四十日かかる ともいわれている。今日、これを一回で巡り終えようとするより、何回かに分けて巡る人の方が 多いようである。その方が実生活にあって無理がないせいであろう。それには地域的にまとまっ ている札所を何カ寺かきめて、日帰りか、一〜二泊の日程がよい。
 とにかく巡りはじめたら三十三ヵ所を満願にしようという心がけが何より大切である。三十三 ヵ所の霊場全部を巡り終えたという充足感は、生きるカとなってあらわれてくるからである。 観音札所巡礼によって「こころ」が澄み、そこに「もう一人の自分」を見出すことができると いうことは、すでに多くの巡礼者が体験し、告白しているところである。坂東札所は、あなたの 期待に充分こたえてくれるものを持っている霊場である。「仏種は縁に従って起こる」と教えら れているが、観音さまとのご緑を探め、心の平安を得てより充実した人生を送りたいものである。  では坂東の各札所を、各寺の「縁起」をたよりにしつつご案内することにしよう。


第一番札所のページへ
地図(クリッカブル・マップ)へ